生徒指導は、正しいことや間違っていることをはっきりさせて子どもに教えることだけではない。あいまいさを利用して、正しいことを選ぶ子どもを育てることも必要である。
生徒指導は、ある意味警察のスピード違反の取り締まりに似ていると私は思っています。
根拠はなく私が勝手に思っていることなのですが、40km制限の道路だったら50kmくらいまでは見逃してもらえるのではないかと思っているのです。
つまり、10kmはある程度許されるかもしれないあいまいな範囲だと期待しているわけです。
生徒指導では、この10kmのようなあいまいさがとても大事なのだと私は思うのです。
例えば学校が荒れている生徒指導では、いわゆるゼロトレランスのように、何が正しくて何が間違っているかをあいまいにするのではなくはっきりさせることが必要です。
しかし、ほとんどの子どもが教師の指導に従っているような落ち着いた学校の生徒指導では、スピード違反の取り締まりで私が期待する10kmのあいまいな範囲のようなものを上手に利用して、子どもたちに正しいことや間違っていることを理解させ、次からは正しいことを選択するように指導することが大事だと思います。
ただ残念なことに、本当はあいまいさをどう指導に生かすかがとても重要なのに、多くの教師がそのことを理解していません。あいまいさを利用することが、生徒指導のスキルではなく甘やかしだと誤解しているからです。
教師がいつも子どもに正しいことを選択させる指導をしていると、どこかで無理が生じて子どもたちの心の中に不満やストレスがたまり、学校が荒れていくことにつながることも考えられます。
実社会では、ほとんどの大人があいまいさの中で生活していて、教師も例外ではないにもかかわらず、学校の子どもたちに対してはそれを許さないのです。子どもたちはとっくに大人の都合のよさや矛盾に気づき、不信感を抱いているにもかかわらずです。
特に最近では、インターネットを見れば、子どもたちにとって都合のいい答えをたくさん見つけることができるわけですから、昔の教師のように、上から目線だけでは子どもは納得せず、言うことを聞かなくなってしまいます。
この点が私の若い頃の教師とは大きく違っているかもしれません。今の教師の方がずっとやりにくいと思います。
ではどうすればよいか。
答えは、あいまいさに理由を持たせるということです。
あいまいさの理由とは、「子どもたちへの信頼」であり、「子どもたちのためを思っていること」であり、「子どもたちへの愛情」です。
「君たちのような子どもだったら、あいまいな部分があっても心配ない」、「君たちだったら大丈夫」、「君たちはこれをきっかけにもっと成長できる」等と、教師が子どもたちのためを思っているがゆえのあいまいさであるということを、子どもたちが感じるような指導を工夫するのです。
それとともに、あいまいさが甘やかしにならないようにするために、教師自身が見本となって態度で見せることも必要です。
身なりを注意するなら、教師も身なりをきちんとする。
時間を守れというなら、教師も守っていることを見せる。
教室をきれいにしろと言うなら、教師も自分の机の上や身の回りを整頓する。
教師が子どもにとって最も身近な保護者以外の大人として、見本になろうとしている姿を見せなくてはいけないのです。
この見本になろうとしている姿こそが、実は、本当の意味での正しいことや間違っていることをはっきりさせる基準となるのです。
しかし、いくら教師が見本にならなくてはいけないといっても、完璧な人間などいないわけですから、努力しても足りない部分は必ず出てきます。
でも、あいまいさの理由が子どもたちに伝わっていれば、教師に見本とはなり得ない足りない部分があったとしても、子どもたちは目をつぶってくれるのです。
ただし、そのような子どもたちとの関係は、決して偶然から生まれるものではないので、教師が日々の学校生活の中で子どもたちとそのような関係性を構築する努力や工夫をしておくことが、すべての生徒指導の大前提となります。
よく、生徒指導上の共通理解と言う教師がいますが、本当に共通理解をしておくべきことは、正しいことや間違っていることをはっきりさせるための基準を検討することだけではなく、あいまいな部分を子どもたちにとってどのように成長する機会にするかということを、誰もが理解しておくということだと思います。
これは、あいまいさをどう活用するかという方向性を共有しておくということです。
そのために具体的にどうしたらいいかということは、それぞれの教師の知恵と工夫と腕の見せ所です。
あいまいさの理由が、「子どもたちのためを思って」ということだと子どもや保護者に伝わりはじめると、生徒指導は教師にとってとてもやりがいのあるものになっていきます。
あいまいさの理由が、子どもに対するあきらめ、見放し、教師のいいかげんさ等であると、間違いなく学級や学校は崩壊していくでしょう。
根拠はなく私が勝手に思っていることなのですが、40km制限の道路だったら50kmくらいまでは見逃してもらえるのではないかと思っているのです。
つまり、10kmはある程度許されるかもしれないあいまいな範囲だと期待しているわけです。
生徒指導では、この10kmのようなあいまいさがとても大事なのだと私は思うのです。
例えば学校が荒れている生徒指導では、いわゆるゼロトレランスのように、何が正しくて何が間違っているかをあいまいにするのではなくはっきりさせることが必要です。
しかし、ほとんどの子どもが教師の指導に従っているような落ち着いた学校の生徒指導では、スピード違反の取り締まりで私が期待する10kmのあいまいな範囲のようなものを上手に利用して、子どもたちに正しいことや間違っていることを理解させ、次からは正しいことを選択するように指導することが大事だと思います。
ただ残念なことに、本当はあいまいさをどう指導に生かすかがとても重要なのに、多くの教師がそのことを理解していません。あいまいさを利用することが、生徒指導のスキルではなく甘やかしだと誤解しているからです。
教師がいつも子どもに正しいことを選択させる指導をしていると、どこかで無理が生じて子どもたちの心の中に不満やストレスがたまり、学校が荒れていくことにつながることも考えられます。
実社会では、ほとんどの大人があいまいさの中で生活していて、教師も例外ではないにもかかわらず、学校の子どもたちに対してはそれを許さないのです。子どもたちはとっくに大人の都合のよさや矛盾に気づき、不信感を抱いているにもかかわらずです。
特に最近では、インターネットを見れば、子どもたちにとって都合のいい答えをたくさん見つけることができるわけですから、昔の教師のように、上から目線だけでは子どもは納得せず、言うことを聞かなくなってしまいます。
この点が私の若い頃の教師とは大きく違っているかもしれません。今の教師の方がずっとやりにくいと思います。
ではどうすればよいか。
答えは、あいまいさに理由を持たせるということです。
あいまいさの理由とは、「子どもたちへの信頼」であり、「子どもたちのためを思っていること」であり、「子どもたちへの愛情」です。
「君たちのような子どもだったら、あいまいな部分があっても心配ない」、「君たちだったら大丈夫」、「君たちはこれをきっかけにもっと成長できる」等と、教師が子どもたちのためを思っているがゆえのあいまいさであるということを、子どもたちが感じるような指導を工夫するのです。
それとともに、あいまいさが甘やかしにならないようにするために、教師自身が見本となって態度で見せることも必要です。
身なりを注意するなら、教師も身なりをきちんとする。
時間を守れというなら、教師も守っていることを見せる。
教室をきれいにしろと言うなら、教師も自分の机の上や身の回りを整頓する。
教師が子どもにとって最も身近な保護者以外の大人として、見本になろうとしている姿を見せなくてはいけないのです。
この見本になろうとしている姿こそが、実は、本当の意味での正しいことや間違っていることをはっきりさせる基準となるのです。
しかし、いくら教師が見本にならなくてはいけないといっても、完璧な人間などいないわけですから、努力しても足りない部分は必ず出てきます。
でも、あいまいさの理由が子どもたちに伝わっていれば、教師に見本とはなり得ない足りない部分があったとしても、子どもたちは目をつぶってくれるのです。
ただし、そのような子どもたちとの関係は、決して偶然から生まれるものではないので、教師が日々の学校生活の中で子どもたちとそのような関係性を構築する努力や工夫をしておくことが、すべての生徒指導の大前提となります。
よく、生徒指導上の共通理解と言う教師がいますが、本当に共通理解をしておくべきことは、正しいことや間違っていることをはっきりさせるための基準を検討することだけではなく、あいまいな部分を子どもたちにとってどのように成長する機会にするかということを、誰もが理解しておくということだと思います。
これは、あいまいさをどう活用するかという方向性を共有しておくということです。
そのために具体的にどうしたらいいかということは、それぞれの教師の知恵と工夫と腕の見せ所です。
あいまいさの理由が、「子どもたちのためを思って」ということだと子どもや保護者に伝わりはじめると、生徒指導は教師にとってとてもやりがいのあるものになっていきます。
あいまいさの理由が、子どもに対するあきらめ、見放し、教師のいいかげんさ等であると、間違いなく学級や学校は崩壊していくでしょう。